2016年9月16日金曜日

「これはすごいすごい秋」

「これはすごいすごい秋」
“This is a Great Great Autumn”

作/演出/出演:大道寺梨乃(快快)
Writer / Director / Cast : Rino Daidoji (FAIFAI)







「これはすごいすごい秋」
“This is a Great Great Autumn”

 
is

ながいながい秋の夜ひとり台所で秋の森へ行く妄想をする人間(女性、時には動物)におこるなつかしい未来のはなし。
a story that draws out a nostalgic future which happens to human beings (women, but sometimes animals) when they fantasize about going to the autumn forest in the kitchen.


時は9月の終わり 
It was the end of September

金色の夕方 
A golden afternoon

東京の北の丸公園の園内中央に位置する池のほとりで 
Beside the pond in the middle of Kitanomaru Park in Tokyo

平日の夕方16 
It was 4pm on a weekday

これは今からもう7年も前の景色 
This was a view from 7 years ago

暑すぎず寒くもない秋の始まりの公園 
It was the beginning of autumn in the park, the weather was not too hot and not too cold

夕日が水面に反射して金色にかがやく 
The sunset reflected on the surface of the water and shined in gold

そこで寝そべるわたしの首には貝の首飾り 
I was lying there with a big seashell necklace around my neck

を首にかけたわたしの目の中に目の前の木の葉と空と大気と宇宙が同時にうつる 
And in my eyes, there were the leaves of the tree in front of me, the sky, the atmosphere and the universe

ああおいしいおいしいりんご 
Oh, it’s a very very delicious apple

ときどき信じられないような夢のようなことが現実で起こる 
Sometimes many unbelievable and dream-like things happen in reality


キッチンでスコーンを焼く 
I bake scones in the kitchen

慣れてきたので、スコーンはだいたい40分もあれば焼きあがる 
I got used to the baking so it only takes around 40 minutes

粉をふるって中に入れるクルミを砕いて砂糖を20g塩も少々 
I sift the flour, crush the walnuts, add 20g of sugar and little bit of salt

スコーンを焼いているじかん薄暗いキッチンでiPhoneをみていたらともだちがこんな詩をポストしてる
When the scones are in the oven, I find a poem that my friend uploaded on Facebook on my iPhone

それを読んでいる時間誰もいないキッチンから薄暗い秋の森へとすこしづつすこしづつ進んでいく 
As I read the poem, I slowly move towards the autumn forest from the kitchen

足元でぺきぺきなるしめった小枝乾いた落ち葉がさわさわ鳴って 
The moist twigs and fallen leaves make a crispy sound under my feet

次に踏み出す足音をわたしより先につくっているみたいだ 
They seem to be making the sounds of my footsteps before I step forward


これはすごいすごい秋 
This is a great great autumn

もしくは、ながいながい秋の夜 
Or a long long autumn night

もしくは、何かが道をやってくるこのすごいすごい秋の夜のなか。
Or something wicked this way comes in this great great autumn night.




公演場所:
blanClass/ブランクラス
http://blanclass.com/japanese/schedule/20161103/

232-0006
神奈川県横浜市南区南太田4-12-16
[井土ヶ谷駅]改札出て正面の信号わたりすぐを左折、一つ目の交差点を右折、二つ目の角を左折、三井のリパーク後ろ、blanClass看板がある細い段々を上がって右の建物2

アクセス(井土ケ谷駅はエアポート急行も止まります!!)
京浜急行[井土ヶ谷駅]横浜駅から下りエアポート急行で2つ目(約8分)、普通で5つ目(約11分)
時間帯によって異なりますが、普通に乗ると途中エアポート急行に追い抜かれることがあり、到着時間がかなり遅れますので、よく調べてからご利用ください。



公演日時:
11月3日(木・祝)19:00開場/19:30開演
11月4日(金)19:00開場/19:30開演
11月5日(土)19:00開場/19:30開演
11月6日(日)18:00開場/18:30開演


チケット:
前売り2500円/当日3000円
各回30名限定


予約方法:
ご予約は前日までにご連絡をお願いします。
〈タイトル〉[これはすごいすごい秋]
予約〈本文〉1)日にち 2)氏名 3)住所 4)メールアドレス 5)参加人数
上記の内容でイベント前日までに以下のメールアドレスに送信ください。こちらからの返信を持って予約完了とさせていただきます。なお定員に達した場合などお断りすることもございますので、あらかじめご了承ください。
〈メールアドレス〉info@blanclass.com




大道寺梨乃(だいどうじ りの

198264日東京生まれ。パフォーマンスグループ快快/FAIFAIの創立メンバー。パフォーマーとして2004年から国内/海外でのほぼ全ての快快作品に出演。主な作品は「My name is I LOVE YOU」「アントン・猫・クリ」「りんご」「へん しん()(快快)「文(かきことば)(演出/岸井大輔)The PARTY party in Firenze/Berlin/Tokyo(演出/篠田千明)等。 
201410月には初のソロ公演で一人芝居となる「ソーシャルストリップ」を東京・横浜で行い、20152月には全編英語での「Socialstrip English version」を東京・横浜で上演。20167月には「Socialstrip Asia tour」として北京、香港、バンコクでの公演を行う。
自身や身の回りの人々の日常を現代のファンタジーとして軽やかに物語に起こし自身の体でそれを表現する事に挑戦している。20157月よりイタリア、チェゼーナ在住、以降は日本とイタリアを拠点に活動。 




作/演出/出演:大道寺梨乃(快快)
音響/映像/写真:加藤和也(快快)
照明:エウジェニオ・レスタ
制作:小野寺里穂
英語翻訳協力:ジョイス・ラム
フライヤーデザイン:小林剛(UNA)
協力:藤原ちから/カルメン・カステルッチ/Teatro Comandini/快快

共同企画blanClass

Socialstrip Asia Tour 2016 was finished!と「これはすごいすごい秋」チェゼーナでのリハーサルとオープンリハーサル・未来に対するノスタルジアとは?


Socialstrip Asia Tour 北京〜香港〜バンコクについて書いた文章はここ!
8月2日にボローニャ空港について、エウジーが迎えにきてくれてて一緒にチェゼーナに車で帰った。ポンズ(猫)も元気でみんなから猫は久しぶりに会っても喜んで飛んできたりしないよ、最初はえ?きみだれ~?って感じの反応されるよ、ときいてたけどポンズはわたしが帰ってきたことが一応わかるのか近くをうろうろしてきたりしてかわいい。わたしは小さな家族(夫と猫)のところに帰ってきた、この家に住み始めてからはじめて1ヶ月家をあけてみたんだけど、エウジーはこの1ヶ月がかなりさみしかったみたいだしわたしも1ヶ月離れるのはちょっと離れすぎ、、、(今まで遠距離カップルだったわけだが)と思ったので、今後はどうやっていくか考えないとな~と思ったりする。(体は一個しかないので、ひとつの場所にいたらそこにしかいられない。)
いろいろ考えないとな~とのんびりしてたら、すぐ8月5日にのろとりほちゃんがチェゼーナに到着して早くも新しい作品のリハをはじめることにした、エウジーの働く劇場Comandiniで8月の10日間リハーサルをさせてもらうことになっていた、リハーサルの最後にはここの人たちに見せるオープンリハーサルもやる。
「これはすごいすごい秋」は実は脚本というかこの作品に関するテキストは2013年から書き始めていた、2013年から書き始めて、また去年くらいから少しづつテキストを増やしていって、このリハーサルでも新しいシーンが増えて、どんどん増えていってしまう。秋の話で、女の人のはなしで、女の人は秋の夜の台所にひとりでいる、ひとりでいる台所での秋の夜は長くてついつい妄想が止まらなくなる、(いまのわたしみたいに)いろんな妄想をしつづけてそのうち彼女は秋の森のなかにひとりで出かけていく。みたいなはなしになるはずなんだけど、そこに猫の話やわたしの死んだ小さな犬の寝言の話や、どこかに移動している時に感じるノスタルジアの話になったり、未来からきたしゃべる鍵のはなしとかいろいろ混ざってきちゃって、自分でも収集がつかない。だけどチェゼーナでみせるときは言葉の問題があるから、なるべく言葉を使わないシーン、翻訳が難しくないシーンを選んで最終的に全部で4シーンくらいを作ってみて、つなげて見せることにしてみた。
秋の午後のある日台所でひとりで泣いていたときのはなしと、犬の寝言のシーンと、どこかに移動しているときに感じるノスタルジアのシーンをみせてみることにした。ノスタルジアという言葉は英語もイタリア語もnostalgiaでスペルが一緒で意味も同じだと思うんだけど、「故郷を懐かしむ気持ち、過去を懐かしむ気持ち、哀愁」とか日本語の意味を調べるとでてくる。イタリア語だとHo nostalgia(Hoは英語でいうhave)といえばわたしは今そういった気持ちってことになる。その気持ちはだいたい日本語だとそういう感じの気持ちのことだけど、日本語でぴったりの言葉をみつけるのはちょっと難しいと思う。でもイタリアの人にはよく伝わる気持ちだからわたしは時々誰かに、日本が恋しい?ときかれるとこの言葉を使ったりする。
nostalgiaという言葉をwikipediaで見てみたら、それは17世紀に開発された医学用語で、(ギリシャ語の「nostos」:帰郷と「algos」:心の痛みを合体して作られた)故郷から遠く離れて日々弱っていく精神病であり18世紀には前線にいる兵士の士気を下げる病気ということで排除するべきものとして大いに研究されたとのことだった、故郷や過去にあった出来事を思い出しもう戻れないかもしれないものをもう一度感じたいと思いつつ弱々しくなっていく精神病は、置かれている状況が悪いほうが起こりやすいらしく、そしてそれは感染しさえする。
故郷を遠く離れてみて、東京からイタリアに引っ越してみたわたしが、はじめて本当にこのnostalgiaという気持ちらしきものをはっきり感じたのは引っ越してから数ヶ月たったある時ミラノからイタリアのチェゼーナのおうちに帰っていた電車の中で、しかも東京の家ではなくチェゼーナの自分の家に向けての気持ちだった。1分でも早く家(チェゼーナの家)に着きたいから出発15分前の電車のチケットをミラノ中央駅でさっと買い(イタリアの電車はけっこう難易度高いけど慣れたからこんなこともできるように、)電車に乗り込んだ、窓から景色をながめながら、今自分は自分の家にものすごく帰りたくて帰ってるけど、ここは本当はわたしの生まれ育った東京の家からはとても遠くて、わたしはわたしの家に近ずきながらも同時にどんどん離れてもいってる気がする。
しかもわたし、はいつもわたしの中にいて、いつもここ、にいるわけなのだが、電車に乗っているときや飛行機にのっているときにわたしはわたし、と電車/飛行機、のふたつに乗って2重の窓の外を見て移動していて、電車/飛行機の窓の外と、わたし、の外はいつも高速で移動していってしまってとうとうわたし、はこんなに遠くまで来てしまった。
いくら移動が完了してどこかに着いたとしてもいつもわたしの中にいるわたし、だけなかなか追いつけないでいるみたいだ。Nostalgiaという状態は簡単に言うと体(わたしの外側)と心(わたし)が一緒にいない状態のことなのかもしれない、たとえそこが故郷じゃなくても、初めて行く場所であっても、心からそこにいるならNostalgiaには罹らないのだろう。
こういう気持ちを最近はどこかに移動する時いつも持っていて、移動中にいつもどうして家にいなかったんだろう、と後悔する。今回のオープンリハーサルでは「どこかに向かって移動しているときいつも死ぬほどのノスタルジアを感じる」っていう言葉を日本語から英語→イタリア語に訳してもらって使うことにした、エウジーは Mentre viaggio ho sempre nostalgia.と訳してくれた。ここの人たちは少し悲しげな話とかが好きだからみんなにこのフレーズを伝えたら喜んでくれて何人かにこのセリフを言ってもらって録音させてもらったんだけど、最終的に声を使わせてもらったのはエウジーとカルメンの2人だけだった。

カルメンはエウジーの職場で働いてる60代の女性で、でも正確にはカルメンは劇場以外でもマーケット出店やアパート貸し出しとかいろんな仕事をちょこちょこやってて、劇場のオーナーのひとりであるロメオのお姉さんで、劇場で衣装をつくったり、みんなのお昼ご飯をつくったり、「ブッケティーノ」という作品のツアーでヨーロッパやブラジルや韓国やむかし日本にもきたり、去年のわたしたちの結婚式からはウェディングプランナーの仕事も始めた。
カルメンはもう60代だけどものすごくかわいくて白に近い金色の髪とぷくぷくしたほっぺをした赤ちゃんみたいな女性で、イタリア語しか話さないけど私たちはなぜかずいぶん前からすでに会話が可能だった。2014年の初夏に、りのがまたここにやってくるよ、とエウジーがみんなに伝えた時、みんながえーなんでー!?となってる中カルメンだけは小さくほほえんで「エウジェニオにも誰かのやさしさがひとつ必要なのよ」と言ったそうだ。結婚式の時カルメンは「わたしはプロデューサーよ!」と言って結婚式の会場作りも料理選びもワイン選びも食器もグラスも飾り付けもぜんぶやってくれた、木から籠を吊るしてその中にフルーツをいれたり、「テーマはカントリーシックよ!」といってわらのソファーをつくってくれた、ちょっと前に韓国に行ったカルメンはキムチがつくってみたすぎて白菜を韓国から持って帰ってきたり(実はチェゼーナでも買えることを教えた)最近わたしが元気、という日本語を教えたのでいつも元気元気言っている。そんなカルメンは敬虔なカソリック教徒でもあってかなり保守的な面もある、だけどエウジーいわく、彼女の人生は保守的な自分と新しいことを知りたい好奇心旺盛な自分との戦いなのだそうだ。
オープンリハーサルの前の日に、次の日来られないカルメンのためだけにリハーサルをして見せた、カルメンは全部わかったわ!と言って少し悲しくて美しくて好きだわと言ってた、数日後にカルメンの山のお家に一緒にいった時も、ハンモックで寝てるカルメンにちょっと来て座りなさい、と近くに座らされて、あの犬のシーンで犬が言ってたことは、、と質問を受け、なるほどね、全部わかったわ!と言われてうれしかった、カルメンはわたしがここに来てからあった人の中でもちょっと特別で、(彼女はいろんなひとにとって特別なのだが)正直人生の中でまたひとり大事な人がふえてしまったなぁと思う。カルメンの旦那さんのオリはこの夏の初めに癌で亡くなった、だからこの夏はカルメンと一緒に彼女の山の家に2回泊まりに行った。毎年夏はオリと山の家に行っていたから1人でいくのはさみしいし、わたしはこの山の家が大好きだから。

次の日のオープンリハーサルには20人くらい友達などなどがきてくれて、わりと緊張した、そしてやってみて感じたことは、期待していたよりもちょっとショックな結果だった。というのもどこかで、ここの人たちに自分が日々感じていること、つくってみたいもの、をなるべくストレートに、えいっと見せてみた時に、きっと自分がここにいることがもっとラクになるんじゃないか、と思っていた、なんというか、わたしの思っていること、カルメンも全部わかったわ!と言ってくれてたし、みんなけっこうわかってくれるんじゃないか、と期待していた、でもやってみてみんなの反応から感じ取ったのは、やっぱりわたしが感じること、やってみたいことやその方法は、ここではちょっと異質なもので、自分はずっとstranger(よそから来た人)のままそれは変わらないということだった。でもそれは終わってすぐは、頑張ったことや疲れとかいろんな気持ちがあって悲しい方向にショックなことだったけど、今ではちょっと不思議で悪くないショックだったなと思う、去年ここに引っ越してきて結婚式をして、結婚式のために日本からイタリアまできてくれた家族を無事ボローニャの空港まで送り届けて、その帰り道に車の窓から高速道路沿いの景色をみてたらエウジーが「りのはここのこの乾いた夏の景色がすき?」ときいてきた、高速道路沿いの景色はすごく乾いた南ヨーロッパの夏の景色で、金色の稲穂みたいのがずっと広がっていたりする、色は茶色に近い金色みたいな色で日差しはものすごく強い、わたしはうーんと考えて「いまはこの景色になにも感じないけど、いつかこれを懐かしむようになると思う、」と答えた、エウジーは「そっか、ぼくはこの景色がほんとに大好きなんだ」と言ってて、そうなんだーと思った、わたしの知ってる夏は、アジアの湿った夏で、空に蓋をされたみたいな暑くて湿った水の中みたいな空間の中でそれぞれが溶け出してしまって、みんなの境界線がよくわからなくなるような夏がわたしの夏だ、ここの夏はすごく乾いていて、強い日差しの中でそれぞれの境界線はもっとくっきりとして、それぞれの違いを日差しの中に浮かび上がらせているみたいで、わたしの知ってる夏とはまるで正反対だ、オープンリハーサルで小さな公演みたいなことをしてみた結果、わたしとみんなの違いはさらにくっきりとしてしまって、それはどうしようもなく明確で変えられないことなんだなとわかってしまった。
香港でチャーリーに会ってこの人わたしのお父さんに似てるかも、と思ったとき、もしかしたら自分のご先祖さまたちもマレーシアあたりから日本にやってきたかもしれないと思った、北京で黒髪に赤い口紅をさした美しい女の子を見かけるたびにChina beauty!って思ったり、タイでもはや完全なタイ人となっている中国華僑系のタイ人の友達といたりしたときに、なぜだか自分のルーツみたいなものに少し自信が持てたりした、少し前はほんとに子供みたいだけど、今住んでいるこのイタリアの中で、どうして自分だけみんなと見た目が違うんだろうと悲しくなったりしていた、だけど今は前よりちょっとはここにいる自分が悪くないような気持ちになれたのは小さなことだけど自分としてはわりと救われた気持ちになれた、何年たってもどんなに言葉が上手になっても、わたしはstrangerのままだけど、それも悪くない、むしろそういう人がいつもどこかにいるってことが世の中にとってじつは超大事で、重要、とまではまだ自信満々には思えないけど、そんな風に思え始めてきたかもしれない。(あくまで始めただけだけど、)
あともうずいぶんいろいろ書いたんだけど、タイトルに書いた、未来に対するノスタルジアとは?ってことも一応書いておきたい。
体(わたしの外側)と心(わたし)が一緒にいない状態がnostalgiaなんだとしたら、その気持ちをまだやってきていない未来に対して感じることってあり得ないのだろうか?つまり心(わたし)は未来にあるのに、体(わたしの外側)が過去にあれば、未来に対するnostalgiaが起こりうるのでは?余談だけどエウジーと初めて会ったとき、その前になぜだかしゃべってた男の子がいて、その子はわたしに「なんだおまえ全然英語できないな」みたいなこと言ってきて悲しくなった、そのあとに話したエウジーとは何も問題なく会話ができてこの子何て優しいんだろう、と思ってそして数年後結婚まですることになる私たちだけど、今ふとあの男の子誰だったのか?ということを思ったりする。彼にわざわざ「なんだおまえ全然英語できないな」とか言われて悲しくならなかったら、そこまでエウジーのこと特別うまく話せるし、優しい人って思わなかったかもしれない、彼は誰だった?まさか、、、私たちをアシストするための未来からの、、、?!とか思い始めてしまう、だけど今のわたしみたいに、この地球上のいろんな場所に行ってみたりして、新しいnostalgiaを感じる場所がどんどん増えていったいどこにそれを感じているのかよくわからなくなっていってるみたいな状況が、例えば時間旅行をしていろんな年代、時間に行ってみたりしてるひとにとっては起こって、その人たちにとってはnostalgiaは別に過去や過ぎ去ったものにだけ感じるものではなくなって、新しさは過去からも得るものにもなり得るだろう。
北京からオープンリハーサルまで書いたこの文章は、ツアーをまわりながらいろいろ感じた自分の頭の中を整理して外に出すため、と新しくこの11月頭に横浜にて上演する「これはすごいすごい秋」のことを考えるために書いた。まだまだ書いてみたことは実はいっぱいあるんだけど、あとは11月の公演にいろいろ詰め込めるようにもう少し考えたりつくっていってみよう。よかったら11月のはじめにどうぞ「これはすごいすごい秋」を見に来てください。ながいながい秋の夜のなかで起こるなつかしい未来のはなしです。(たぶん)